text by 赤様
「あのーーー、あれだよ、あれ・・・、
顔はわかるんだけど名前が出てこないんだよなぁ~」
社内の某大先輩が電話で話している。
その会話に、周囲は自然と笑みがこぼれる。
歳を重ねると、
もの憶えが悪くなるのは、人間の宿命なのだろうか?
いや、そんな年輩の人だけではなく、
大人は大人でも、まだ若い年代の人でも、もの忘れはよくあることだ。
「海馬」(池谷裕二・糸井重里 共著)という本のなかで、
『痴呆のような場合を除き、
「歳をとったから物忘れをする」というのは科学的には間違い』
だと書かれている。
それはいったいどういうことだろう。
『子どものころに比べ、大人はたくさんの知識が頭に入っている。
だから、その中から知識を選び出すのに時間がかかるのは当然だ。
生きてきた上でたくさんの知識を蓄えてきたわけだから、
これはもう仕方のないことと言っていい』と。
その証拠に、
『ド忘れをしても、その内容を誰かに言ってもらうと、
「あ、そうそう、それを言いたかった」となるのは、
ド忘れしてても、一方で正解が何かをちゃんと知っていることの証し。
つまり、忘れてしまった情報が消えてしまったわけではない』
と解説している。
どなたも思いあたる節があるだろう。
「あそこにしまったんだけどなぁ~」なんて探しはじめても、
持っているモノが多ければ、探す場所が多くなり、
見つけ出すのに時間がかかるのは当然というワケだ。
ときには、探し物が出てこない、なんてこともあるだろう。
♪探し物は何ですか~
見つけにくい物ですか~
カバンの中も 机の中も
探したけれど 見つからないのに
(歌詞は、井上陽水「夢の中へ」)
さらにもうひとつ、
『実は子どももたくさんド忘れをする』
という驚きの事実も、この本では紹介されている。
では大人と子どもとは、どう違うのだろうか?
『重要なことは、子どもはド忘れをしても、それを気にしていない』
と言うのだ。
僕はこの一文でちょっと笑ってしまった。
確かにド忘れを気にしている子どもは、お目にかかったことがないし、
そんな老成した子どもなど、可愛くもない。
また、この本では、ある事例を紹介している。
様々な年代の人を対象に、ある図形を提示して、
それを1時間後に思い出すという実験をした結果だ。
この実験で、
図形を見て憶えると、大人と子どもの成績にほとんど差がないのに対し、
書いて憶えると、大人の成績はほぼ完璧に近くなる。
大人の方がよく憶えられたのだ。
これは『大人になっても記憶力が低下しない、という事実ばかりでなく、
大人になってから手を動かすことがいかに重要かも示している』と。
『一度得た情報を丸暗記せず、
自分の手で書くという行動をすることによって、
受け手ではなく送り手の立場に立つことになり、自発的な経験になる』
と説明している。
さらに、
『大人は、書きながら自分の知っている事柄に置き換えたり、
想像を膨らましたりして憶えることができる』のに対し、
『子どもは、経験を下敷きにして憶えるということを行いにくい』
のだそうだ。
僕らも仕事や生活のなかで、大切なことはメモをとるが、
記録すること以外に、これは実はたいへん重要で意味のある行動なのだ。
僕も記憶力がいい方ではない。
特に、似た事柄の物事が多く存在すると、
とたんに記憶がゴチャゴチャになる。
だが、この本のことを教訓とするのならば、
憶えることを面倒臭がらずに工夫をして、
かつ、忘れることを恐れない、と開き直る(?!)のが大切なのだろう。
上記の井上陽水の歌詞には、こんな続きがある。
♪まだまだ探す気ですか~
それより僕と踊りませんか~
夢の中へ 夢の中へ
行ってみたいと思いませんか~
夢の中まで行ってしまうと、
ちょっと行き過ぎではないのか、という気もする。
でも、2コーラス目の歌詞で、こう歌われている。
♪探すのを止めたとき~
見つかることもよくある話しで~
やはり、やることをやったら、あとは、なるようになる。
そういうことなのだろう。
忘れっぽいのも困るが、
それをポジティブに捉えられない方が、余計に困るということを、
子どもも陽水も示しているように僕には思える。