text by 赤様
楽天の野村監督がユニフォームを脱いだ。
チームは2位に躍進し、多くの人が認めるほどの成績を納めた。
しかし、フロントは契約更新をしない方針だ。
彼のユニフォーム姿は、もしかしたら見納めになるかもしれない。
実は、僕は野村監督と同じところに勤めていた。
そういう言い方をすると、すごい経歴に思えてしまうが、
僕は以前、神宮球場のグラウンドキーパーをしていて、
当時、ヤクルトの監督が野村さんだったという、
ただそれだけのことである。
彼は1990年にヤクルトの監督に就任すると、
独自のノウハウで弱小チームを生まれ変わらせた。
若手、ベテラン関係なく、貴重な戦力と認め、
各々の長所をうまく引き出した。
他球団で戦力外になった選手も再生させ、
「野村再生工場」と呼ばれた。
それがチーム戦力の底上げとなり、好成績の下支えとなった。
でも、僕は毎日のように練習を見ていたが、
特別な練習をしているとは思えなかった。
前任の関根監督のときと変わらないように思えた。
質は違うが大学や社会人のチームの方が、
よほど工夫した練習をしていたくらいだ。
では、どこが違うのか。
やはり、彼の培ってきたノウハウだろう。
プロ野球には珍しい長いミーティング。
オリジナルの資料を用意して思考方法を伝授した。
またそのノウハウを活かすための意識改革も行った。
それは、入団前は全く無名だった彼が、
一流選手に駆け上がるために築いてきたものだ。
抜群の洞察力と日々の試行錯誤から生み出された、
彼にしか為し得ないノウハウだ。
神宮球場の一塁側ベンチには、
当時、一段高くなった専用の椅子があり、
彼はいつもそこに座り、報道陣の囲み取材を受けていた。
マスコミから放たれる「野村語録」は、
ときに野球のためだけのものではなく、
人生の糧ともなりうるものでもあった。
選手や監督は、負けた日にインタビューに応じることが少ないが、
彼はいつでもマイクの前に立ち、リップサービスをした。
ときにオチャメに、ときに誇らしげに、でもやっぱりボヤき・・・。
なんとか野球界を盛り上げようというその姿勢は、
74歳という年齢を感じさせなかった。
これだけの知識と情熱がある人物を、みすみす放っておくのは野球界の損失だ。
そう思えてならない。
楽天フロントは名誉監督などという、事実上の「隠居」勧告をしたが、
オファーがあれば、どこでも引き受ける人である。
ユニフォームを着て、また野球界に活気を与えてほしい。
月見草だって、野にあって咲くものである。
現場にいてこその野村克也だと僕は思う。