お昼になると、気づけば吸い込まれるように立ち食い蕎麦屋に入っていることがある。
別に「今日は蕎麦が食べたい」と強く思っていたわけでもない。
本当は、美味しい蕎麦の味や香りを知っている。名店の記憶だってある。
それでも、暖簾をくぐってしまう。
なぜなのだろう。
私の場合、立ち食い蕎麦の利用はほぼランチだ。
昼休みの時間は限られる。ちゃんとした店に行く余裕は、時間的にも気持ち的にもない。
そんなとき、立ち食い蕎麦屋はちょうどいい。
早い、安い、迷わない。そして何より、こちらに多くを要求してこない。
立ち食い蕎麦は、味の完成度で勝負しているわけではない。
出てくるのは数分。器を持つ手は急かされないが、長居する前提でもない。
ここで私たちが食べているのは、蕎麦そのものというよりも、時間なのかもしれない。
「この短い時間で、ちゃんと食事を終えられる」
その安心感が、次の予定へ背中を押してくれる。
立ち食い蕎麦屋では、コートを脱がなくてもいい。
会話をしなくてもいい。スマホを見ていても、黙っていてもいい。
美味しい蕎麦屋に行くときのような、少し背筋を伸ばす感じは求められない。
忙しさで生活が少し雑になっている自分を、そのまま受け入れてくれる場所。
それが、都会の立ち食い蕎麦屋だ。
夕飯として立ち食い蕎麦を選ぶことは、ほとんどない。
あるとすれば、急に「食べてきて」と言われた日。
候補を考える余裕もなく、駅の一角で済ませてしまう。
ここでもやはり、求めているのは味よりも処理能力だ。
一日の終わりに、選択肢を増やしたくない。だから、立ち食い蕎麦で済ませる。
改めて考えてみると、立ち食い蕎麦屋に求めていたものは、
「美味しい蕎麦」ではなかった。
・限られた時間を壊さずに済むこと
・余計な判断をしなくていいこと
・生活の途中で、一瞬立ち止まれること
そのすべてを、立ち食い蕎麦屋は無言で提供している。
だから今日も、美味しい蕎麦を知っているはずの私は、
ふとしたタイミングで、暖簾をくぐってしまうのだと思う。

