龍安寺

text and photo by 赤様

久々の京都ネタです。
京都に龍安寺(りょうあんじ)というお寺があります。
石庭で有名なあのお寺です。
僕の大好きなお寺のひとつです。

石庭.jpg

その石庭は、白い小石の海の中に、
大きな石が15個置かれていますが、
どこから見ても、
全ての石が一度に見られないように置かれているのは、
ご存知の通り。
そのことから、ときに宇宙にたとえられたりと、
様々な解釈が生まれています。

では、なぜ、全てが見えないのでしょうか・・・。
とりあえず、先に進みます。

次から次へとやって来る観光客は、
ともに訪れた仲間と一緒に、石の数を数えたり、
庭の造形に見入っていますが、
僕としては、この縁側にいると、庭の美を鑑賞するよりも、
いろいろな考えを巡らすことのほうが適している場所だなと、
思います。

でも、ここを訪れた際、ひとしきり石庭を堪能したら、
そこで帰ろうとせずに、そのままその縁側をぐるりと廻ってください。
石庭だけでは、龍安寺の半分しか味わっていないからです。

縁側に沿って進むと、庭の反対側に廻ります。
そこには、つくばいがあるのです。
つくばいとは、手や口を清めるために水を張っておく石の桶のこと。
これには、ある文字が刻まれています。

つくばい.jpg

上から右回りに「五・隹・疋・矢」と書いてあるように見えますが、
真ん中の四角い部分を「口」とすると、
「吾唯足知(われ、ただ足るを知る)」という言葉になります。

全てが見られないこと、わからないこと、足りないこともあるだろうが、
それを不満に思わずに、今の状態を良しとして受け入れよ。

そう言っているのだと思います。

で、僕がそう理解できたとき、
石庭と、このつくばいとが、ピンと繋がったのです。
石庭も、同じことを言わんとしているのだと。

さらに僕の中では、
「今の状態で充分じゃないか、
何か足りないかもしれないけど、
この状態を恵まれていることと肯定するべし」
とも解釈できたのです。

本来、「足るを知る」とは、欲を戒める言葉。
しかし、こう解釈できたことで、
僕は、ヘンに肩肘張らず、ヘンに欲張らずに、
自分自身が楽になったように思えました。

石庭とつくばいとの謎解きに正解はありません。
解釈の仕方も、人それぞれだと思います。
でも、それをどう受け取り、どう考え、
どう自身の中に取り込むかが大切なのでしょう。

古いものの奥深さを探るというのは、
自分の心も試されているような気がします。


 ※ちなみに、石庭をのぞむ部屋(方丈の間)に、
  全ての石が見えるところが1箇所だけあるそうです。
  でも、この庭の作り手は、
  おそらく石自体が見えるか否か、を問うために
  この庭を造ったのではないと思います。

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このブログ記事について

このページは、cforceが2009年6月12日 09:00に書いたブログ記事です。

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