年のせいか、この頃は昔を懐かしむことが多い。
そんな中で先日わがデザインチームのスタッフの「ワンダーズ」のひとりのデザイナーSと、ひょんなところで話が盛り上がった(ひょっとして私だけかも)。それは・・・昔のお笑い芸人たちだ。
今以上に個性的なキャラクターが多かった。
わたしの記憶で最も忘れられないのが、「獅子てんや瀬戸わんや」である。この二人、ひとりは大柄の眼鏡(獅子てんや)にもうひとりは背の低い眼鏡で禿頭(瀬戸わんや)というコンビである。有名なフレーズは「たまごの親じゃ、ピヨコちゃんじゃ〜…」だ。そのせりふを吐いていた。かなり東京の方では人気絶頂だったが、わんやが病気で倒れてからはコンビ解散、その後わんやが亡くなり、てんやも芸能界を引退してしまった。ボケのてんやにツッコミのわんやのやりとりが可笑しくて、特にのんびりしたボケをかましたときのわんやのイライラしたレスポンスもこの漫才の醍醐味でもあった。
ナンセンスな笑いのカリスマもいた。林家三平だ。息子のこぶ平は今や「林家正蔵」を名乗り、時の変遷を思わずにはいられないが、当時の三平はタダモノじゃなかった。落語界ではある意味異端児とも言えるような画期的な落語家だった。ま、大半は古典落語の印象は薄いのだけれども、あの時代の気分ともシンクロしていたように思う。ナンセンスなコンセプトのギャグで当時絶頂だった赤塚不二夫に通じる理不尽的笑いがあるように思う。これからというのに早くに逝ってしまったのは、やはり天才の宿命か。(「好きです、好きです、好きです、うっ!! ヨシコさ〜ん」は死ぬまできっと忘れまい。)
東京ベースで活躍した漫才師で「晴乃チック・タック」というのもいた。持ちネタフレーズは「い〜じゃなぃ?」だった。晴乃タックこと「高松しげお」はコンビ解消後、俳優もやっていて、ウルトラマンのシリーズにも出ていたので、ご存知の方もいるかもしれない。
そうそう、「Wけんじ」というコンビもいたな。東けんじと宮城けんじという二人だ。「やんな!」というキメぜりふだった。こちらも東京漫才の目玉だった。東けんじが1999年に亡くなった後は、宮城けんじは浅草の舞台で漫談をする一方で司会や講演などで活動していて、2005年亡くなっていることから、かなり晩年まで現役だったようだ。
「てんぷくトリオ」というのも人気者だった。三波伸介、伊東四朗、戸塚睦夫という3人組だ。三波の「びっくりしたなぁ、もう〜」が印象的。戸塚が病気でなくなってトリオとしての活動は自然消滅したものの、それぞれ独立したキャラクターで、人気者になっていった。伊東四朗は「伊東家の食卓」の大黒柱として現役だが、三波も亡くなるまでは国民的タレントだった。NHKの「減点パパ」は当時人気番組の一つだったな。
いやいや、忘れていませんとも。「ザ・ドリフターズ」。伝説的な長寿番組であった「8時だよ!全員集合!」も最近DVDが発売になって、私のような年代が結構買っているそうな。納得。このドリフターズは、70年代中盤で荒井注(「なんだ、ばかやろう」が流行ったなぁー)が引退、その後新メンバーに志村けんが加入した。昭和41年の日本武道館で行なわれたビートルズの来日公演の前座を勤めたことは有名な話。「ドンキーカルテット」という楽器演奏を伴ったコミックバンドの主要メンバーだった小野ヤスシ、ジャイアント吉田もかつて在籍していた。
まだまだ出てきそうだ。
東京ぼん太:唐草模様の風呂敷を背負った栃木出身の芸人。
春日三球・照代:「地下鉄はどこから入れるんでしょう?」「考えてると寝らんなくなっちゃう」のネタでお馴染み。
柳亭痴楽(りゅうていちらく):十八番が新作落語の「痴楽綴り方狂室」。語り以上にその顔の表情が独特だった。
関東圏の出身なためか、こんな芸人ばかり羅列しているが、関西系のお笑いも結構好きだった。ところで、こうしてみると私の子供の頃のお笑いのアイドル達は今やすっかりあの世に旅立っていった方が多いのに驚いた。あれほど一世を風靡しておきながら、今では特定の年代の記憶にしか存在しない、というのも何だか悲しいものである。きっとそのスタイルや生き方などはお弟子さん達になんらかのカタチで引き継がれているんだろうと思う。とはいえ今でも現役で活躍している人もいる。淘汰され生き残った選ばれた人と言えるかも知れない。
さて、もうひとつ驚いたことがあるのだ。実はこの話をしていたワンダーズのデザイナーSは、二十代にもかかわらず、いくつかの芸人のギャグを知っていたのである。本人も何故知っているのかよく分からないと言っていた。
年月が過ぎても良いものは必ず残るのだ。