サインせずにはいられない

text by 赤様

以前、僕が都内のある野球場で
グラウンドキーパーをしていたときの話しです。

ある巨人戦の試合前、グラウンド作業を終えて控え室に戻ると、
なんと長嶋監督(当時)が座っていました。
『おいおい長嶋さんがいるよ』と声には出さずも、
僕らは顔を見合わせました。

するといきなり「今日はどう?」なんて僕らに話しかけてきました。
報道や球団関係者から声がかかるのは、だいたい天気のこと。
その日はちょっと怪しい雲行きだったのです。

こんなように、話しかけてくる選手や監督は限られた人だけで、
マスコミからチヤホヤされている選手や監督は、
たいてい自ら話しを切り出すことはありません。
でも、この人は誰隔てなく会話をしてくれるのです。
それも人気の理由のひとつなのでしょう。

せっかくだからと、同僚のひとりがロッカーからおもむろに色紙を出し、
思い切って監督にサインをお願いしました。
監督は快く引き受け、スラスラスラ~とマジックを走らせました。

普段、僕らがサインをもらうときは、
ベンチ裏に行き、目当ての選手を探して、
ウォーミングアップのあい間を狙っていくものです。
でも、そんなふうに間を読んでも、ときには断られることもあります。
それが、まさかこの場でもらえるとは・・・。

サインをし終えても、監督は手にマジックを握ったまま。
なんだか、し足りない雰囲気でした。

監督は試合が始まる時間になり「ども~」と言いながら、
その日は部屋を出ていきました。

後日、
同僚の誰かが、有名な選手のサインをもらおうとしたのでしょう。
机の上には色紙がスタンバイされていました。

しかし作業時間になり、僕らはグラウンドに出ていきました。
作業を終え控え室の扉を開けると、
「これ、いいんだろう?」と、サインしている監督がいるではありませんか。
あなたのサインがほしいとは一言も言っていないのに・・・。

どうやら色紙を見ると、この人はどんどんサインしてしまうのでしょう。
他の選手は、イヤがることが多いのに。

なぜ、僕らの控え室に長嶋さんが入ってきたのか?
それも僕らにとっての疑問でした。
あの長嶋さんが、よりによって僕らの控え室に・・・。

僕らの控え室は、3塁側のベンチの隣りにあります。
選手の掛け声や足音までも聞こえる位置です。
単純に近いこともあるのでしょう。

でも本当の理由は、
後に、報知新聞のベテラン記者が教えてくれました。
他のプロ野球の球場には、
ふつう監督専用の「監督室」という部屋があります。
監督はそこでコーチとミーティングをしたり、
その日の試合のシミュレーションをしたりします。
ときには報道関係者から逃れるために、そこにこもることもあります。

でも、この球場はもともと学生野球のために作られたものなので、
監督室というものがありません。
どうやら、長嶋さんは報道関係者から逃れるために、
僕らの部屋にやってきたのではないかと。

きっと公の目から逃れ、ホッとできるのでしょう。
ある試合のときなどは、僕らと何気ないことを話していて、
試合が始まったことさえ気づかなかったこともあるのです。

それ以後、長嶋さんは監督を辞めるまで僕らの控え室を訪れ続け、
山のように積まれた色紙を
僕らと会話しながらサインする日々が続きました。

今は病気の後遺症で、右手が不自由になってしまいましたが、
長嶋さんのサービス精神は、今も変わっていないことでしょう。

長嶋サイン.jpg

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このページは、cforceが2010年1月29日 08:34に書いたブログ記事です。

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