ノーベル賞

text by 赤様

ノーベル物理学賞と化学賞に日本人が選ばれた。
2つの賞に対して、日本人が4人も選ばれたことは、
暗いニュースばかりの世間に希望を与える話題だ。

どちらの賞も、研究発表から長い年月が経っているので、
皆、かなりのお歳をお召している。
だが、その彼らの貫禄と賞の箔が見事に合致していて、
ことの重さを一層演出しているようだ。

マスコミはこぞってチヤホヤし、世間もそれに乗ってヤンヤと騒ぐが、
当初から研究内容を知っている、その世界の人たちにとって、
その研究の素晴らしさは、受賞しようと、しなかろうと変わらないはずだ。

以前、こんなことがあったのを憶えているだろうか。
1994年、大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した。
そのとき、その賞をとったことを理由に、
国民栄誉賞を贈ろうと当時の内閣が検討し始めて、
本人に辞退された。

辞退した本当の理由は本人にしかわからないが、
僕が想像するに、
「世界に認められないと評価しないのか!」
なんて思っているのではないだろうか。
この国は、自分の国の良さに対して盲目なのか、と言わんばかりに。

ノーベル賞をとったからと日本国内の評価があがるのは、
いかにも優秀な人物に対して、
普段から目を向けていない現われのような気がする。
世界で評価されたから日本でも評価しようという発想は、
順序が逆だろう。

もし、ノーベル賞をとった後に彼のモチベーションが変化して、
それが作品に現れたのなら、
その時点で「国民栄誉賞を贈ろう」という意図はわかる。
しかし、94年のときのような決め方は、
世界に対してちょっと恥ずかしい。

スポーツの世界では、
自らの優れている点に気付けないのは、
負けることと等しい。
ノーベル賞に値する偉大なことに対してなら、
僕は一般市民の関心がもっと高くてもいいと思う。
そう考えると、この国の意識は、
経済的には優れていても、
文化的関心はちょっと低いと思わざるを得ない。

今回、日本人が受賞して「日本人も捨てたもんじゃない」
と思えることは喜ばしいこと。
でも、賞を取れる人がいるからには、
それに準じる人たちが、まだまだ日本にもたくさんいるはずだ。
なかには、その活動の機会に恵まれない人もいるだろう。
ならば、もっと国内のそれらのことに目を向けるべきではないか。

不景気、不景気とつぶやいても、何も始まらない。
そういう人材やプロジェクトを大切にして、
より多くの活動の機会や支援を与えるべきだと思うのである。
そういう投資が増えたなら、
この国は、もっと元気になるのではないだろうか。

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このページは、cforceが2008年10月17日 09:00に書いたブログ記事です。

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