ミス・ユニバース

text by 赤様

先月ミス・ユニバースの日本代表が決まった。
美馬寛子さん21歳。
彼女は7月にベトナムで開催される世界大会で世界一に挑む。

その日本代表が決まった最終選考会と、
候補者がそれに挑むまでのトレーニングの模様を、
先日、ドキュメントとして放送していた。
民放とNHKとが、焦点が違うものをそれぞれ放送し、
僕はザッピングしていたときにたまたまその両方を見た。

どちらの番組でも焦点をあてていたのが、
イネス・リグロンというフランス人女性。
彼女は、過去の大会で成績が振るわなかった日本に、
ミス・ユニバースの主催者側から派遣された人物だ。

日本代表の最終候補者に残った10人が、
彼女の指導の元で最終選考会までの約3ヶ月間、
日本の選考会を突破するためではなく、
世界で勝つためのトレーニングを行うのだ。

このイネスのトレーニングにより、
2003年には宮崎京が世界第五位に、
2006年には知花くららが世界第二位となり、
そして去年、森理世が48年ぶりの世界一となった。

彼女の成果が確実に好成績をもたらしたことは素晴らしいことだ。
また、それとともに、
日本人が世界大会で高く評価されたことは、日本人として嬉しいことだ。

しかし、僕の頭のなかにはちょっとした疑問符が浮かんできた。
欧米の人間がトレーニングをし、
欧米の人間の主催するイベントで評価されること。
そこには、古くからある「日本人的な美しさ」は
まったく価値の無いものになってしまうのではないのか。

何かを評価するとき、
それらは、否が応にも基準となるモノサシの上にのせられる。
それが欧米の人間で主催されるものなら、
モノサシは彼らの価値基準に近いものになるはずだ。
それに挑む者は、そこで評価されるモノを磨かないと
好印象を与えられないことは想像に難くない。

でも、どこかの化粧品の宣伝ではないが、
日本人には、日本的な美しさがあるはずだ。

たとえば、主体性、主張できる自意識、自身に溢れた表情などは
欧米人より劣るかもしれないが、
柔和な姿勢、その中に潜む凛とした強さ、つつましさという美意識は、
日本人の方が優っていると思えるからだ。

しかし、そういう個々の文化の細部までを評価の対象としてしまうと、
それぞれの国の美意識が違いすぎて、
比較対照できなくなってしまう。

それならば、
アカデミー賞が主演女優賞、助演女優賞などがあるように、
グラミー賞が楽曲賞、レコード賞、アルバム賞があるように、
美的感覚ごとに○○部門、というものを設けてみてはいかがなものか。
美しさに対する感覚は、古今東西、千差万別なのだから。

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このページは、cforceが2008年5月16日 09:00に書いたブログ記事です。

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