text by 赤様
先日、後輩がハネムーンに旅立った。
旅好きの僕にとっては、
海外へ行けることがめちゃくちゃ羨ましい。
でも、彼は、現地で何語が話されているのか、
直前までわからないと言っていた。
僕も今まで何度か海外に行っているが、すべて一人旅だった。
僕は日本語しか喋れないから、最初の海外はハラハラ、ドキドキで、
会話にはすごく苦労した。
観光施設で手順を聞いたり、
食事のときにメニューを選んだりするのは、
かなり頭を悩ませた。
でも、外国人と話しをすること自体は嫌いじゃなくて、
むしろ楽しいと感じてしまう。
外国人にも全く抵抗がない。
彼らとは、使い慣れた言葉が違うだけで、
思っていることは、たいして変わらないだろうと思っている。
振り返れば、
2002年のサッカーワールドカップの時に、
外国からの観戦者がたくさん来日したが、
競技場周辺にいた観戦者と思しき人たちに、
僕は片っ端から話しかけて握手をした。
サッカーファンは、世界中どこへ行っても、
話す相手の国の有名選手の名前を言って親しもうとする習性があるので、
僕もそれにならった。
たとえば、ブラジル人に「ジーコ、ジーコ」と言うと、
「ナカータ(中田英寿のこと)、ナカータ」と言って笑顔で握手してくれるのだ。
そうやってスウェーデン、スペイン、ブラジル、韓国、アイルランド、
パラグアイ、イングランド、メキシコ、オランダ・・・
ん~、いったい何ヶ国の人と握手しただろう。
学生時代にもバイト先で、
東アジアや南米から来ている留学生や出稼ぎ労働者とよく話しをした。
パソコン会社にいた韓国人はみんな秀才で、
英語や日本語を完璧に操った。
僕が「パンムンジョム(板門店)」とか「ナンデムン(南大門)」とか「トッポギ」とか、
韓国の地名や料理の名前を言って話しかけると、
決まって「韓国語、お上手ですね~」なんて返されるのだが、
あんたたちの日本語の方がぜんぜん上手だろっ!
と何度も思わされた。
また、倉庫で働いていたペルー人とは、紙に絵を描いて筆談した。
彼らはいつも果てしなく陽気で、
毎朝、僕をみつけると、遠くからでも構わず僕の名前を大声で呼び、
スペイン語でまくしたてた。
何を言っているのか全くわからなかったが、
こいつらアホか?と思えるくらい明るい雰囲気のなかで、
楽しく仕事ができたのはいい思い出だ。
そんなことがあったからではないが、
言葉がわからなくても、なんとかなるという感覚が僕にはある。
だが、いざ、会話が必要になったときは、
インチキ英語を駆使して、彼らを困らせてしまうのだが。
文法がめちゃくちゃで、
しぐさや表情などを総動員して、意思を伝えようとする様子は、
バラエティ番組でよくみる売れない若手芸人のように、滑稽かもしれない。
でも、そのかみ合わない感覚が
僕にとってはとても非日常的で、妙に面白く思えてしまう。
ベルリンの競技場でも、
チケットのことで係員の青年に質問した。
彼は母国語ではない英語を滞りなく話したが、
たとえ、僕の英語が通じたところで、
彼の英語が僕に理解できるのか?(笑)
と話し始めてから気がついた。
案の定、全てはわからなかったが、なんとか大意は汲み取れ、ホッとした。
そんな感じで質問をしても、こちらが言葉がわからないとみるや、
そっけない対応をする人も多かったので、
彼が真摯に対応してくれたことは嬉しかった。
おそらく相手をわかろうとする彼の姿勢が、物事を解決させたのだと、
今にして思う。
ジョン・万次郎が漂流して、アメリカ人に助けられてから、
どのようにして英語を覚えていったのかが、
僕には不思議でしょうがない。
でも、万次郎が英語がわからない段階で、
意思を通じさせようとした心境は、
僕は、なんだかわかる気がする。
そこにはきっと、
気持ちを汲み取ろうとする意識があったに違いないと思うのだ。
さて、冒頭のハネムーンではないが、
こんなことを思い出した。
ベルリンから帰りがけの、乗り換えのパリの空港で、
日本人と外国人の男女が、
子どもを連れて歩いているのを数多くみた。
みんな僕と同じ成田行きの飛行機に乗る列に並んだ。
いずれも国際結婚した夫婦だとすぐにわかり、
こんなに多いのかと驚かされた。
彼らが海外に住んでいるのか、
日本に住んでいるのかわからないが
夏休みを使って、
いつもは離れて住む親や兄弟に会いに行くのだろう。
遠く離れた国で生まれ育った者同士が、
その場に居合わせるという偶然。
そんな不思議さを楽しめたら、
世界はもっと面白いと思えるだろう。